小5〜高3までの8年間をタイとベトナムで過ごした神尾くん。
小学校高学年〜中学・高校と、心も体も大きく成長&変化する大事な時期に、度重なる親の転勤があり、自分の進学問題と向き合った。
どうしようもなく苦しい時に、SAWANが心の支えとなり、懸命に努力した。
そうそう。だから常にいろんなパターンをシミュレーションしておく必要があるし、いざ決まった時には、最善の選択を即断しなくちゃいけないことがよくあるんだ。
カミオは、本当に頑張ったよね。カミオの頑張りを支えてくれたのが、「両親の心から子供の将来を願う想い」と「団長の叱咤激励!」だったんだよね。
今回は、夏のSAWANで指導員として帰ってきた、東京で大学生活を送っている神尾くんにインタビューしたよ!
Table of Contents
第1章 バンコクでの4年間
小5の時にタイに来たんだよね。そのあとは??
タイに住み始めたのが小学5年生のとき、ベトナムに移動したのが中3の夏、そしてまたタイに戻ってきたのが高2の夏。トータルでタイとベトナムに8年間住み、今の自分の大部分を形成していると思う。最初の4年間はバンコク日本人学校で過ごし、ほどほどの成績と安定した学校生活を送っていたんだ。
SAWANに初めて行ったのはいつだっけ?
中2のときに初めて行ったSAWANでは、学校の友達と固まり、小学生に対する煩わしさを感じていたことを今でも覚えている。でも同時に、昔からSAWANに参加してきた子達の絆の強さと、その中にある個の力を羨ましいとも思った。その後、中3になってからもSAWANに参加しつつ、学校の成績もなんとなく維持し、ふつうに日本に帰国して日本の高校を受験することを想像していた。中3の夏に行ったSAWANでは、同級生の友達と最高のファミリーになり、全員で受験を頑張ろうという流れを感じていたところに、大きな決断を迫られたんだ。
中3の夏に、親がタイからベトナムに転勤になったんだよね。
父の仕事の都合でタイからベトナムに異動することになり、それに伴い、自分はベトナムの日本人学校かインターナショナルスクールに入るという二択を迫られたんだ。もちろん、バンコク日本人学校を卒業したい、バンコクにいる友達と離れたくないという気持ちで、最初はベトナムに行くことに抵抗したけど、それは無理だったんだ。
第2章 ベトナムのインター校受験 〜 試験&入学までの奮闘記
ベトナムでは、インタナショナルスクールに編入したんだね。編入試験、どうだった?
最初は、ホーチミン日本人学校に編入して、日本の高校を受験し、日本の高校で寮生活をすることを考えていた。しかし編入時期が悪いという理由で、ホーチミン日本人学校への編入を断られてしまったんだ。
それから急いでインターへの編入を考え、必死で英語の勉強をした。それまでは日本の高校受験対策で塾で5教科全て勉強していたが、インターへの編入を決めてからは英語だけを必死で勉強したことを覚えている。
候補に挙げていたインターが、日本の高校でいうところの偏差値70越えぐらいの難関校だったため、勉強をいくらしても足りないという焦る気持ちで塾にこもり続けた。
インターの編入試験は、英語力と謎解きのような数学が求められ、さらに面接がある。そして、自分が受験したインターには事前のオンラインテストがあり、一次試験として受ける必要があった。これは、塾の先生に手伝ってもらった。この一次試験の内容は、英語レベルが高くてちんぷんかんぷんだったけど、隣に座っていた先生がこっそりヒントをくれたりしたこともあり、ひょんなことに受かることができた。
その後、現地での試験が必要だったので、母とともにベトナムに飛んだ。その日受けた試験のことはよく覚えている。周りは白人ばかりだった。テストに時間制限がなかったのでゆっくり解いていたら、最初は6人いた受験者が、いつの間にか自分一人だけになっていた。その時思ったことは、「あー、絶対落ちた」だ。試験の手応えも全くなく、周りが英語ペラペラなのに自分が受かるとは到底思えなかったからだ。
さらに、自分自身どうしてもそこに行きたかったというわけではなかったので、他のインターを見て回ることにした。そして見学に行った学校の一つが、見学当日にそのまま編入試験と面接を受けさせてくれた。面接の印象が良かったのか、そこには合格。モチベーションもあがった。結局、ここに入学した。
だが、実を言うと、最初に受けた難関校にもなぜか受かっていた(笑) でも自分の印象があまり良くなかったので、難関校には編入しなかった。
そんなこんなで、一応無事に高校受験(?)が終わった。試験と面接を経験して少し自信がつき、バンコクでの最後の1ヶ月は、日本人学校でやりたいことをやって満喫。団長にも全ての経緯について報告し、鼓舞してもらったので、インターにいくことを楽しみにしていた。
第3章 ベトナムでのインター奮闘記
さあホーチミンでのインター生活の開始だね♫
新学期、インター初日、いきなり災難に巻き込まれた。インター生の大半は、学校のスクールバスまたは親の送迎で通学しているが、自分はマンション所有のミニバンで送迎してもらって通学することになった。ドキドキしながらそのミニバンに乗り、学校に着いた!と思ったら、そのインターの付属幼稚園の方に降ろされてしまったんだ。お金もなく、ケータイもSIMカードもないし、現在地もわからず、本当にどうすればいいのか分からず、敷地内をうろうろしていた。その時たまたま通りかかった幼稚園の先生に「あっちのバスに乗りなさい」と言われ、その指示に従い、学校周辺のインター生が利用するスクールバスに奇跡的に乗れた。そして間一髪でホームルームに間に合い、普段の10倍以上に大変な初日となった。
その後は日本人を始めとして友達はできたけど、相変わらず英語力が低かったので苦労が多かった。最初の頃の成績は本当にCとDとEしかなくて、現実にぶちのめされた。そして、できないなりに必死で努力していた自分が、さらにメッタ打ちにノックアウトをくらう事件が起きた。
社会学のような授業で、レポートの宿題が出され、それまで英語でエッセイなんて書いたことがなかった当時の自分は、色々な部分を集めてコピペしたものを提出した(*日本の中学ではこれは許されてしまう)。もちろんインターにおいて、それはタブーであり、簡単にバレてしまう。通常なら、先生は個人的に注意などをするところだが、運が悪かったのか先生に嫌われていたのか、なんとその自分の書いたエッセイが全クラスに最悪なエッセイの一例として晒されたのだ。自分は、恥ずかしさ、惨めさ、悲しさが入り混じった感情に襲われ、自尊心はボロボロになり、今までの自分は何をやっていたんだろうととにかく絶望し、学校に行くことをやめようかとさえ思った。というよりは、「もう行けない」と感じたに近い。親にも言えず、先生を信じられなくなり、一人でベッドに倒れ吐きそうになった。しかし同時に、そんな生徒の気持ちも考えられない先生ごときのせいで、なんで自分が学校に行くことをやめなければいけないのかと強く思った。その後、その事情を知っている友達とも話し、学費を払ってくれている親に申し訳ないとも思い、学校には行き続けた。
インター生活がつらかった時、何を支えに頑張ったの?
実際この事件についてSAWANで皆に話した時にも泣いてしまったし、今思い出して話すだけでも当時のことがフラッシュバックして辛いのだけど、おかげでメンタルはなかなかに強くなった。
自分がそんな状態の時、バンコクにいる同級生たちはみんなぼちぼち受験を迎えていた。インターの冬休みに入り、親がバンコクに行く飛行機チケットを取ってくれた。頑張っている友達と再会し、SAWANにまた参加することができた。
そのときのクリスマスSAWANには、同級生(中3)が一人もいなかったことがすごく印象的だ。20人ぐらいの中2と10人ぐらいの高校生がいるなかで、自分だけ一人のような気分になり、最初はビビっていた。そんな時団長に「どこにでも混ざれる環境にいるんだからラッキーだな」と言われた。その通りだった。
先輩には、SAWANにおける心構えや子供達との接し方、そしてSAWANを回していく側になる上級生にとって必要なことを教えてもらった。後輩たちとは、とにかくたくさん話して遊んで、心が軽くなっていくのを感じた。そして全体が大きなファミリーになっていくことを感じられたことが本当に大きかった。
このクリスマスSAWANに行かなかったら、この後のどんどん辛くなるインター生活は乗り越えられなかっただろう。様々な場所に住んでいる、様々な年代の友達と、連絡しなくても再会できる場所はSAWANだけだと思う。だから自分は決意した。SAWANをオアシスのように考え、インターでの勉強を続けようと決意したんだ。
SAWANの仲間の存在が頑張る力に繋がったんだね!
そうなんだ!それから学校の成績は少しずつ良くなり、友達との交流も増えた。だが、この頃に思春期と反抗期が入り混じった中途半端な状態になった。友達に会いたいと強く思うことが増え、家にいることや家族といることがめんどくさくなったんだ。週4日ぐらいの頻度で友達と外食したり、家に帰っても自室にこもっていた。挙げ句の果てに、インターがつまらないとか、自分が青春を楽しめていないのは全部親のせいだ!って親に言ってしまったんだ。そして日本の高校に行きたいって無理矢理に話を進めた。親も責任を感じていたのが分かっていたから、それにつけこんで早稲田シンガポールに行くとか言いたい放題だった。
後から思えば、多くの中高生がこのステージを経験して成長していくのだと思うし、実際この状態はある一定期間が経てば落ち着くから、SAWANで保護者の方とこの話題について話すときは、ただただ子供のことは放っておいてあげてくださいって言うようにしている。
しかし当時の自分は調子に乗り過ぎていた。そんな時、ちょうど団長がホーチミンに来る用事があると聞いて、団長ならきっと自分が日本の高校へ行くことをサポートしてくれるだろうと思い、会いに行ったんだ。そしたら思いっきり怒られ、注意されてしまった。高校やインター、そして大学の学費を払うのは親で、子供は親が決めた学校に通うべきだって言われて、今まで何に悩んでいたのか分からなくなるぐらい納得した。さらに日本にいる友達のように日本の高校で青春を送ることに固執する気持ちがイッキになくなり、
「どうしたら、今日本で高校を楽しんでいる人たちに勝てますか?」って団長に聞いた。そしたら団長は「インターを卒業しろ」と言い、親もそれに納得し、自分はインターを卒業することを団長と親に約束した。
今でも強く思うことは、もしこの時に団長に会って怒られていなければ、確実に今の自分の進路にはたどり着けることはなかったし、親に対してずっと罪悪感を持っていただろう、ということだ。
団長の強い言葉で、自分のやるべきことが明確になったんだね。
この時以降、教育に関して親のくれる選択肢を信じていて、そこに疑問は抱かなくなった。実際、親の示してくれる選択肢を選び失敗したことはないし、後悔したこともない。大学進学となると、将来の夢ややりたいことを志望理由にする人が多いが、どんな志望理由であれ、目標に対する思い入れの強さが、自分が努力し達成するためには何より重要だ、と僕は思う。親は出資者なわけだし、いい加減な理由に投資する(お金を出す)のは嫌だと思う。だから、子供がしなければいけないことは、親を納得させる理由を探し、それを伝えることだと思う。自分の思いが強ければ、いくらでもプレゼンはできるはずだ。
第4章 まさかのインター寮生活の始まり
しかし、また事件だよね。ホーチミンのインターに通い始めて2年足らずで、またお父さんの転勤が決まったんでしょう?
エーーー!こんなに頑張ってたのに、また転勤?!?!カミオ、もう無理じゃない?!
インターを卒業することを決意したわけだが、高1の途中でまたも転機を迎えた。父の仕事の都合上、このインターを卒業するまでホーチミンにはいられないと言われたんだ。ホーチミンには寮のあるインターもなく、一緒に住んでくれる人もいなかったのでなかなかに焦った。しかし、両親はまたも自分に最善の選択肢を与えてくれた。タイの寮付きのインターに通う可能性を提示してくれたのだ。幸いにもその頃、姉がすでにタイのインターで寮生活をしていることや、自分にとって心の拠り所であったSAWANがあることなども考慮され、高2になって初めての寮生活をすることになった。このインターを選んだ大きな理由は2つ。
①寮付きだが学費がリーズナブルであったこと
②IBがとれること、だった。
高2からのインター寮生活、大学受験を1人で本当に頑張ったよね。
インターから日本の大学に進学するためには、IBかSATといった学業成績と、TOEFLやIELTSといった英語のスコアが必須だった。日本人でIBを取得しようとする人は少ない。なぜなら、IBで高得点を取ることが生半可な努力ではできず、挫折する人が多いからだ。そのことは重々承知していたはずだったけど、実際最初の成績なんて順位を下から数えたほうが早いぐらいだった。
そのころは、学校の勉強以外に、TOEFL対策のオンライン家庭教師も受けていたため毎日ずっと勉強していた。
学校が終わるのが3時、そこから5時半まで自習、寮に帰って7時までに夕食をすませ、7〜8時半まで家庭教師、その後シャワーを浴びて9〜10時半まで勉強して、寝るという毎日を一学期は送った。一学期が終わるとSAWANにいってメンタルを回復し、また勉強の日々に戻るというのが高2になってからのルーティーンとなった。
そして二学期、三学期は、実はもっと勉強していた。なぜならいくら勉強しても、いくら教えてもらってもTOEFLのスコアが1点も上がらなかったからだ。周りが遊んでいる中、ルームメイトが寝ている中、ずっと勉強していたのに結果がついてこなかった。その上、IBの成績も目標にはかすってさえいなかった。さすがに大学進学がかかっていたので、親からも散々このままでは落ちると言われた。そこでやり方を変えてみることにした。IBとTOEFLの両立を一旦手放し、夏休みの1ヶ月間は英語のスコアを伸ばすことだけに集中したのだ。またTOEFLに苦手意識があったため、IELTSに変えることにした。
第5章 自分を追い込んで挑んだ 大学受験
自分の限界に挑戦し続けたんだよね!
その1ヶ月間は、朝7時半に起床、8〜12時、13〜19時、20〜23時とずっと勉強した。
家から1時間かかる塾に毎日通い、移動中も勉強していた。それでも足らないのが現実で、テストの二週間前に塾の先生に「今のあなたでは目標には届かないと思う」と言われてしまった。そして、その次の日ぐらいに仮眠のためベッドに横になったまま起き上がれなくなった。
単純に「眠い』とは訳が違った。疲労が溜まりすぎて眠ることもできないまま、指と顔の筋肉以外が動かなくなり、体がベッドに沈んでいく感覚を感じた。こんな体験は、人生で初めてだった。ここまで精神的かつ肉体的に追い込まれたことはなかった。この時、自分が限界を経験してることを感じた。この状態がしばらく続き、起きあがりたくても起き上がれず、ただただ何もできなかった。そして1時間ぐらい経ったころ、急に体が軽くなり、疲労が一気に抜けていった。まさに限界を超えたのだと思った。
それにより今まで以上に集中力が上がり、効率も良くなった。そして、テストでは目標になんとか届いた。この限界を超える瞬間がなければ、間に合わなかっただろう。その時はとにかく目標を達成したことによる高揚感を感じ、そして親から夏のSAWANに参加するための飛行機のチケットをもらった(日本へ一時帰国してた時に、SAWANのためだけにタイまで往復した)。そしてこのSAWANでまたもや英気を養い、今度はIBのほうに全てをかけた。
目標のスコアに到達するためには、全ての教科の評価を少なくとも一段階上げる必要があった。全部の点数を倍にするというほど無茶な条件でもなかったし、夏休みに頑張ったおかげで英語の勉強をする必要がなくなり、IBのためだけに大幅に時間をかけることができたため、目標スコアをクリアすることは不可能ではなかった。
もちろん引き続き努力は怠らず、周りよりも早く課題に取り組み、テスト期間に入る1ヶ月前から試験勉強にも取り組み、無事に目標スコアに届いた。その時のスコアを使って、現在通っている大学の書類審査も通り、周りよりも一足早く進学が決まった。
年内の受験はこれだけだったので、ひと段落し、親から卒業SAWANに参加することも許可された。ただ、まだ他にも志望大学が残っていたので、1月の模試まで勉強を続けた。今更だが実はこの時が一番勉強し、限界のラインを更新した。朝から夜まで勉強すること自体はそれまでと同じだったが、暗記量がいつもよりも多かった。10年分の過去問のパターンと教科書や資料をまとめたノート4冊を毎日丸暗記していたのだ。大晦日と正月以外はずっとこれをしていたため、1月の模試は学年一位だった。テスト以外の課題もたくさんあったけど、変わらずオンとオフを切り替えペースを維持することで乗り越えることができた。
第6章 後輩に伝えたいこと
カミオ、本当にすごいよ!バンコクで同じように頑張っているたくさんの後輩たちに、メッセージをお願い🎵
自身の経験から、大学受験にはいくつかの必要なプロセスがあるのだと思う。自分のレベルよりはるか上を狙うなら尚更のことだ。
第一は、大学に行きたいという強い気持ちだと思う。親からしてみれば投資者な訳だし、きっちりした理由や将来のビジョンなどを求めるだろう。受験者本人にとっては、その理由・ビジョンの内容云々よりも、とにかくその理由・ビジョンへの気持ちの強さがそのまま気合いになる。このスイッチを入れる機会がまず必要である。
第二に、インター校からの受験は完全に個人戦であるため、エゴイストに自分のためだけに勉強することが必要とされ、周りが何をやっていようと、自分の欲望やプライドを捨てる必要があるということだ。今後の4年間と目の前の一年間を天秤にかけて、どちらが大事なのか考えるプロセスが必要である。
最後に、話しておかなければいけないのは「限界を超える」ということだ。よくアニメなどで描かれていることだが、実際の限界は本当に体が動かなくなることを指し、その体が一定時間経過すると完全に軽くなった感覚を指すのだと思われる。多くの受験生が最難関校に受かるために無自覚で踏むプロセスなのだろう。これを繰り返すことで自分にとって一番効率のいい勉強方法が確立でき、それに合わせてスケジュールを組むことができる。また限界を超えるたびにその限界のラインは更新されていくので、自分の成長を再認識できる。限られた時間にできるだけ高得点を取っていかなければいけないのが受験であり、この限界を超えるというプロセスはそれを達成する一番の近道でもある。
そして、インター校の受験には親の協力が不可欠であることだ。なぜならインター校の受験では、募集要項が細かく書いてあるため、受験者本人だけでそれを読み、スケジュールを把握するのは負担が大きすぎる。また勉強などでとにかくストレスが溜まっていくので、それ以外の生活の中でストレスを与えることを避けてあげることが重要である。実際に自分自身そうしてもらっていたので親には感謝しかない。
子供の目線で言えば、今現状で自分たちができる最大の親孝行は志望校に合格することである。
この経験は、これからの人生や親になったときにきっと役に立つね。
バンコク・シラチャに住む日本人の子供達が現地活動を通じ
「世界の中の日本」「アジアの中での日本の役割」「夢を持つこと掴むこと」を学んでいます。
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